校歌は昭和二十八年に制定されました。故隅田泰弘先生とのご縁で作詞が竹中 郁に決まり、竹中 郁の紹介で作曲が大澤寿人になりました。

ⅰ 昭和二十八年

津高新聞と呼ばれていた当時の新聞には次の通り記載されています。⓵昭和二十八年一月二十九日竹中 郁の歌詞が母校に着く。➁二月三日に竹中 郁の紹介で大澤寿人へ作曲を正式に依頼する、(大澤の創作ノートに二月十一日作曲とのメモがある)⓷二月二十五日志筑公会堂での卒業式で卒業生・在校生・学校側等校歌斉唱(制定式)。以下同新聞・エンジの青春・六〇年のあゆみの記事により校歌制定までの経緯をやや詳しく追ってみます。

ⅱ 沸き起こる校歌制定運動

母校が発足して四年経過した昭和二十六年頃には学習・生徒会・文化・体育等の方面において急激な発展を遂げました。洲高・洲実に負けない学校造りを目指す以上校内的にも、また対外的にもその存在を象徴し表現する校旗・校歌を制定したいとの声が生徒の間にも強まりました。第二代生徒会長小久保正雄は昭和二十七年の選挙立候補に当たり「校旗・校歌制定」を公約として掲げ当選しました。

ⅲ 校旗・校歌作成委員会

昭和二十七年の夏、生徒・同窓会・育友会・職員から各々代表を二名ずつ出し本委員会をスタートさせました。委員会で対応するところに戦後民主主義の息吹を感じます。

ⅳ 二つの難題

校旗制定は順調に進みましたが校歌は思わぬ難題に直面しました。育友会から「自分達の校歌は自分達で作れ」との意見がでたのです。そこで生徒会側は今迄生徒間で作品募集をやったこともあるが結局要領を得ないで終わっている事、校歌のごとき学校を象徴する大事なものを軽はずみにすべきでない等主張しこれはクリアーしました。

つぎの難題は公募か特命か特命なら誰を選ぶか?いずれも意見が種々出てなかなか結論が出なかったのです。

ⅴ 幸運 竹中 郁と昵懇の人物が母校にいた

ここで母校にとって幸運だったのは隅田先生が竹中 郁と言う著名な詩人と師弟・朋友・詩友の関係にあったことです。小川元延先生に伺ったところでは隅田先生は当時「大阪にいるときから昵懇なので竹中 郁なら頼めるよ」と校歌制定関係者に言ってあった由です。二人の関係が決め手になりました。

ⅵ 次に作曲家。竹中 郁と大澤寿人はほぼ同じ時期の神戸生まれ・関学・深江文化村という共通点も多く、お互いに芸術家として尊敬しあうなかでありました。作詞作曲共同制作は三十二曲にも及んでいます。作詞竹中 郁となれば作曲大澤寿人になるのは頷けます。まさに隅田→竹中→大澤の繋がりは母校にとって大変幸運な糸で結ばれていたと言えるでしょう。

ⅶ 新池~箸倉山~黒田池~静御前墓 案内しつつ心通う会話
六〇年のあゆみ「校歌秘話」に志筑を訪れた竹中を案内しながら交わした会話が綴られている。ほのぼのとして心が温まります。竹中は屈託なく笑いながら言った。「今日の会話を大切に、すばらしい校歌をつくるよ」と。そして隅田先生はこう結んでいる「この校歌がまさに‘交響詩’として歌い続けられる限り、津名高は常に前進し、素晴らしい若者が限りなく多く育っていくと思います」

校歌その2 作曲 大澤寿人へ