一つの灯(あかり)
まずしい夜なべか
寄りあいか
それとも急の病人か
消えようともせぬ一つの灯り
最後の灯り
….おやすみ 淡路島
僕はもうカーテンを引く
きみの ただ一つの
意味ふかい灯りを
大切げに
ネルの寝巻のふところに入れて….
竹中郁(未刊行詩)
これは津名高校に関わるすべての人に読んでいただきたい詩です。詩人は…そう「光の詩人・竹中郁」。校歌作詩者です。
この詩は淡路島の様子、詩の瑞々しさから竹中が二十歳前後の頃の作品ではないかと思います。「竹中郁詩集成」(平成16年刊)によると竹中が詩を書き始めるのは大正10年17歳の頃。中学時代から北原白秋に傾倒しております。初期の頃の詩のイメージがこの詩と共通しているように思われます。
1 この詩の持つ意味
私の高校時代、一流詩人に作詞された校歌の歌詞が詩として素晴らしいとの認識はありました。しかし、心の隅にこんな思いもありました。
記録によると、ある日竹中が志筑へ取材に来てあちこち見て回ったとあります。そして出来上がった校歌です。「遠い他所の地の人が作った歌」との印象が私にはうっすらとありました。皆さんはいかがでしたか?
竹中は隅田先生との繋がり(隅田先生によると「ポン友」)を切っ掛けに校歌作詞者として選ばれました。しかし、この一流詩人は只の詩人ではなかったのです。校歌作詞のおよそ三十年前この詩を作った詩人がわが校歌を作詞したのです。
詩人は若いころから温かい眼差しを淡路島に投げかけていました。このことを如実に物語っているのがこの詩です。
2 この詩を見つけた経緯
① ここからスタート
平成24年に同窓会本部からの要請で私は校歌制定過程を調べ、特別寄稿をしました。同窓会報22号掲載の「我が校歌の兄はピアノ協奏曲だった?」がそれです。筆を置いてしばらく後竹中が我が校歌を作詞することになる隅田先生との出会いのことに大変興味を持ちました。また、特別寄稿は作曲家にウエイトを置いていますので今度は作詞家の事を調べてみようとの意識もありました。そこで、図書館で資料を少しずつ調べておりました。
② 最初の発見
まず、竹中と隅田先生との交流エピソードをポイントにすべく文献にあたりました。竹中コーナーがある竹中ゆかりの神戸文学館へ通い膨大な随筆関係に目を通しました。
「消えゆく幻燈」という随筆集を読み進んでいると「関西詩人風土記」というエッセイがありました。(昭和二十三年の発表)
竹中は京都・大阪・堺・神戸等に続き淡路を取り上げていました。嬉しくも意外でありました。しかも文章が熱い。淡路島に思い入れがあるんだなと思いました。
同じ県でも淡路は海を距てて島国である。
その運命的なノスタルジアは形をかえて遠い外国への憧憬となり詠嘆となる。
柑子(みかんの事)みのる木の蔭に一管の笛吹きならしておのが心を睡らせる子守唄の作り手を生む。
不遇の詩人、中山鏡(あき)夫、 城越健二郎の二人、いまいずこ。
③ 二つ目の発見
次に「私のビックリ箱」と言う随筆集の中に竹中がなぜ神戸から出ないのかに触れている部分がありました。(竹中は一生のほとんど須摩に居住)それは素晴らしい風土だからと言うのです。どのように素晴らしいのか?
東は西宮市背から西は須磨の一の谷の合戦場あたりまでつづく六甲山系の、前は大阪湾を一望にみはるかし、紀伊水道や淡路島を指呼できる風土。
また淡路島が出てきました。
この時点で「竹中・淡路島」に「何かある」との予感がしました。
④ 遂に「一つの灯」を発見
早速ネットで「竹中郁 淡路島」を検索しました。すると「竹中の言葉を三時間に一回呟くツイッター」が見つかりました。何回かクリックしているとツイートの一つに淡路島の文字が出てきました。これだと心が踊りました。それは竹中の膨大な未刊行詩の一つでした。これが冒頭の「一つの灯」なのです。
このツイッターは三時間毎に新しいツイートが出ます。「一つの灯」が呟かれたのが二月二十一日で、その三日程後の検索だったので見付ける事ができました。仮に原稿を書いている四月終わりに検索したとしますと、ざっと五〇〇回クリックをしなければ「一つの灯」にたどりつけません。事実上不可能です。そういう意味でこれを検索したタイミングが誠にラッキーだったと言えます。
私がこの「一つの灯」に出会えたのは本当に幸運だったのです。
⑤「島に向かって」という名で再生
次に刊行された本で「一つの灯」の存在を確認することにしました。竹中は生前詩集を九冊刊行しておりました。そして没後に二冊の全集がでております。その全集にはいずれも「未刊行詩篇」の項目があるようなのでここにこの「一つの灯」があるものと思っていました。ところが、「竹中郁詩集」昭和58年「竹中郁全詩集」いずれの未刊行詩篇にも「一つの灯」が見当たりません。そこでもう一度一つ一つ丹念に読んでいくと「全詩集」に「島に向かって」がありました。
3 竹中郁の淡路島二部作
「全詩集」によると竹中は昭和二十九年一月に日本放送協会の「朗読ラジオ詩集」で「島に向かって」を発表しております。
昭和二十八年一月に校歌の歌詞が母校へ届いてから丁度一年後です。この詩は「一つの灯」をベースに大幅に書き加えたものです。一年前に津名高校の校歌を作詞したとき三十年前に淡路島を詠ったことを思い出したのではないかと推察します。
竹中は同じ時期に「津名高校校歌」と「島に向かって」という淡路島について二つの詩を書いていたことになります。まさに竹中の淡路島二部作です。
島に向かって
どこへ行ったの
昼間(ひるま)のかもめの白い羽音(はおと)は
どこへ行ったの
夕方の空にくっきりとしていた島の輪郭(りんかく)は
今は一列に 水平に
点(てん) 点(てん) 点(てん)と
あかりをちりばめた向う岸
あかりのかたまりの小さな町
夜業(よなべ)か
寄り合いか
なにか それとも 不意の出来事か
あかりは動くようだ
あかりは物語(ものがた)るようだ
もう
わたしは寝(やす)みます
窓のカーテンをひいて寝(やす)みます
・・・おやすみなさい 淡路島
夜業(よなべ)のあかりよ
寄り合いのあかりよ
向う岸のみかんいろのあかりよ
わたしは今
大事に大事に 宝石をしまうように
カーテンを引いている
おまえたちはそれを知るまい
「竹中郁全詩集の未刊行詩篇」より
4 終わりに
百周年を前に「一つの灯」と「島に向かって」を我々が読むことが出来た事に感動を覚えます。こんな素晴らしいステージを誰が用意したのか?
ひょっとして(笑)
竹中が百周年の祝いぞと
灯(とも)してみせた一つのあかり
「竹中郁詩集成」の後書きによると上記ツイーターは冨士芳秀という詩人の様です。実に三百数十扁集めているとの事。
又、同集成によると昭和30年12月に神戸銀行の行報に「一つの灯」を発表しています。
全文同じですが詩の初めに次の四行が書き加えられています。竹中 51歳。
(文責 高16回生 岡内とどむ)