「戦友、藤本晃先生に捧ぐ」
高15回生 門 康彦
あれは遠い日、県立津名高校15回生、15の春、京都府立大学剣道部から竹刀を携えて赴任された25歳の先生に出会いました。
直接、授業を教わった事は有りません。自宅の隣に先生が寄宿されていた縁で、懇意に していただいてはいましたが、記憶に残る思い出はそう多くありません。
同級生の不祥事で呼び出され、「お前達ではないのか!」と詰問された時、黙して語らぬ友人達の代わりに、「違います」と答えた私に先生は、静かに、「責任を持って言えるのだな」とじっと目を見て言われました。背中を流れるヒア汗を悟られぬよう、再度、「違います」と答えると、「分かった」と目を逸らされました。
卒業を控え、既に、私学の文学部の入学が決まっていた時、当時の制度で、数学は入試に関係ないと、試験の白紙回答を繰り返していた私が卒業出来たのも、先生が数学の担任の先生に掛け合ってくれたからでした。
「追試を受けて合格点を取れば単位はやる」追試の日は卒業式の日。想定問題と模範解答の作成、国公立を目指す理系の友人達の何人かは、職員室の廊下に居て、式典に参加出来ませんでした。陳謝。
同級生の森(旧姓)佐代子さんの御子息、上田岳弘氏は、ニムロッドで第160回芥川賞を受賞されましたが、当時、芥川賞に一番近い位置に居ると評価されていた、関西大学文芸部「千里山文学・関大詩人」の同人であった私も、当時のデカダンスカテゴリーに嵌り、倦怠をもて遊ぶ武闘派気取りの学生、その素行を心配して、職員室の藤本先生を訪ねた姪を背負った母親の事を、「あの時のお母さんには凄い存在感が有った」と伝えてくれました。
父親の感触を知らない母子家庭に育った、年の離れた「同級生」に対する思いやりだったのでしょう。
兵庫県庁に居た頃、「門はやっぱり上昇志向か」と寂しそうに言われた言葉が鮮明です 。人の多くは、功績は自分達、責任を取るのは他人といった風潮の中で、先生は真逆にいた方でした。当時の県立津名高等学校女子ソフトボール部の躍進は、先生の存在無くしては、語れません。そして、その成果を、「自分ではなく生徒の努力」としか言わなかった反骨精神は最後までぶれませんでした。
2005年平成17年から15年間4期までの淡路市長を支えてくれた、「淡路市を考える会」の会長、「もう変えてくれ」と言われ、「先生は死ぬまで会長」と答えて本当にそうなられました。
最後に病室を訪ねた時、確かに先生は凜とした目で、「門、約束は果たしたぞ」と言われました。
「今度はお前の番だ」とも。一期一会。「たとえ身は故郷の辺に尽きるとも、約束は守ります」。兄事する戦友よ、安らかにお眠り下さい。合掌。