高15回生 上田(森) 佐代子

 私のまわりは、津名高の卒業生でいっぱいです。義妹夫婦、姉夫婦、妹の二人の息子たち全員津名高の卒業生です。
 私は生穂から志筑に通じる、そろばん道の国道(私たちは、なが道と呼んでいた気がします。)を、自転車で通学しました。

 夫(上田晃正)は、遠田越えで通学したと言っています。14回の彼と15回の私は、2年間同じ学校で、時を過ごしたことになります。お互いの存在は知らないです。
 でも色々同じ事を覚えています。体育館・体育館前の鉄棒・図書館・自転車置場・一番奥にあった古い2階建ての木造校舎・新しい校舎等です。
 時に、ホールの2人のおばちゃん・うどんの上にのせた、するめのテンプラ(今でもうどんの上にのせて楽しんだりもします。)・男女混じった出席簿。
 席はいつも出席簿順・クラス委員は1年間変わらずいっしょ・運動会の立て看板・フォークダンス・体育の授業の日本舞踊(盆踊りだった気もします。)などは、今でも2人の話題にのぼることがあります。
 体育の授業の踊りは、瀬先生が、スーと背すじを延ばして踊るので、てれくさいさかりの高校生だった私達も結構まじめに踊った気がします。
 夫婦で学年が違っても同じような行事を楽しんで高校生活を送ったのかな?と、想像していますが、違っているかもしれません。
 大学入学で淡路を離れ、津名中の教師として知りあい、ひょんなことに結婚しました。そして45年以上経ちました。4人の子供たちを育て、長男長女なので、上田・森両方の親達を看取りました。大変だといえば、大変でしたが自分たちのこの先を考えるいい機会になったとも感謝しています。

 そのご褒美のように、昨年末、末っ子の上田岳弘が、芥川賞にノミネートされ今年の1月に、160回の平成最後の芥川賞を「ニムロッド」で受賞しました。

 今「時の人」です。卒業した江井島幼・小中合同で、又明石西高とにそれぞれ横断幕があがっています。テレビ、新聞、ラジオに出る息子を、不思議な思いで見ています。
 大学を卒業し、就職せずにバイトしながら小説を書くと聞かされた時は、本当にびっくりです。
 子供4人いるし、一生一回しかないから、まあいいか!と、思った記憶が残っています。

 小説を書いて応募してもだめだったり、結婚したり、バイトではなく働いたりして、35才を過ぎたようです。
 そのころのある日、「新潮社の新人賞がとれた。」と連絡がありました。発表の日は、そばで見ていられない程緊張していた、と、彼の奥さんから聞きました。
 小説を書く世界では、どこかで新人賞をとらないと、小説家として認められないそうです。
 「太陽惑星」「私の恋人」「異邦の友人」「塔と重力」と、書き続けました。でも1回・2回と芥川賞に選ばれることなく、私達はあきらめていました。今回「ニムロッド」でやっと3度目の正直になりました。本当にホッとしています。
 小説家になりたいという夢がかなって、彼は本当にしあわせ者だと思います。
 そして「1人位、勉強がんばって東京に出ていけ!」と、浪人中、家でボーと過ごしている弟に言ってくれた兄や、小さい時、忙しい私の代わりに春休み子供映画劇場や秋祭りに連れて行ってくれた姉たちの存在も忘れないでほしいと願っています。
 先日、ラジオの出演の時、小説家の高橋源一郎さんに、「7年目位にスランプを経験するよ。」と、おどされていましたが、色々のことがあると思いますが、ずーと書き続けてほしいです。

 私達夫婦も、この3月、4月に73才と75才になります。
どれ位残り時間があるのかが気にかかっています。人は1人でいる時以外は、誰かと関わっています。誰かと関わって生きています。
 友と2人の時でも、誰と一緒かで色が変わります。グループになると、ますます色のバラィティが増えます。若い時は気にならずに、その時その時で適当にやり過ごしていました。
 でも、もういっぱい、いっぱいないであろう時間を、どう過ごすのか、少しだけ真剣勝負の心境です。でも一番長く一緒にいる彼は、どう思っているのでしょうか?
 私は、元気でオリンピックを見、喜寿の津名高の同窓会に出席したいと、願っています。