高46回生 向原 正人

 この原稿依頼を受けたのはずいぶんと前なのですが、うっかりと忙しさにかまけて、執筆が遅くなってしまいました。気づけば年も変わり1月……。毎年この時期になると当然のように心に去来する想いがあります。今回は、本来の趣旨と少しずれるのかもしれませんがそのことについて書こうかと思います。

 今から28年前の1995年1月17日未明。「阪神淡路大震災」が起きました。震源地はここ淡路島。島内はもちろん、兵庫県阪神地区を中心とした都市部も巻き込む未曾有の大災害となりました。

 当時の私は18歳の津名高校3年生。受験生でした。あの日の朝のことは今でも鮮明に記憶しています。
 まだすっかり寝入っていた午前6時前、二階の部屋で、しかもベッドで寝ていたのに、それでも聞こえた凄まじい轟音……。次の瞬間、身体が一瞬宙に浮くほどの激しい揺れが始まり、本棚の本、机やタンスの引き出しの中身、CDデッキやゲームソフト、その他全てのものが床に散乱しました。
 まだ夜も明けやらぬ中、家族の無事を確認し、ともかくも外に出ました。ぼんやりとした薄明かりの中見えたのは、幼い頃から慣れ親しんできた、家の前にある石造りの大鳥居が見るも無惨に崩壊していた姿でした。絶え間なく起こる余震に怯えながら、それでも夜は少しずつ明け始め、その中で改めて「これまでに経験したことのないほどの大地震が起こったのだ」ということを自覚していきました。
 ダイニングの食器棚は棚ごと倒れ、中の食器は全て破損していました。壁には縦横に無数の亀裂が生じ、水も出ない、電気もつかない、そんな状況が徐々に見えてきました。
 当時、私の両親は地方行政の職員(市役所員)でした。父も母も、自分の家の片付けはすることなく、職場に向かいました。今思えば、行政としての震災後対策支援のためだったのだとわかります。しかし当時は「何でこんな大事なときにおらんねん!」と両親を恨んだものです。父親は震災直後から出勤し、着替えを取りに帰る以外は丸一ヶ月、不在でした。残された家族で自衛隊が救援してくれる飲料水をもらいに行き、食糧の確保に奔走しました。

 しばらく休んだ学校。それでも一週間もすると登校できる状態になり、久しぶりに学校に行きました。今のように便利なSNSはまだない時代です。お互いの安否を確認し合う方法はなく、直接会うことでしか、わかりませんでした。そして幸いなことに、本当に幸いなことに、同級生には犠牲者が出ることはなく、全員そろって一ヶ月後に卒業できました。しかし、本人が無事であっても、震災により両親を亡くした人、家が全壊した人、そのために避難所生活を余儀なくされた人等…その傷跡はとても深く、今なお記憶に刻みつけられています。

 28年前、あの震災を実際に体験し、私たちは本当に様々な苦難にさらされました。しかし、同時に、月並みではありますが「人と人との結びつきの素晴らしさ」に触れることができたのも事実です。「困ったときはお互い様」――震災の時に何度となく耳にした言葉です。どんなにダメージを受けても、人には再び立ち上がる力があります。真の「復興」の原動力となるのは、この「人が他者を思いやれる力」ではないかと思います。

 この場をお借りし、改めて、震災で亡くなられた方の鎮魂を深くお祈りいたします。